幸せを無視しない

先週は子供達と公園へ。

 

水ではしゃぐ娘たちを横目に、緑に当たる光と影を眺めていた。

 

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良いことが起こるだけでは十分ではない。

それをしっかり味わって初めて、幸せは生まれる。

 

※誰の言葉だったか忘れてしまったけどメモしていた。

 

 

良いことないかな

 

って探したり

 

良いことが 起こりますように

 

って願うけど

 

 

 

小さな良いことって毎日起こってるんですよね。

 

 

でも、忙しかったり

 

一つでも多くのことをするために

 

毎日走り回っていたり。

 

 

 

良いことや小さな幸せが

せっかく目の前で起こっているのに

 

それを味わわなければ

起こっていないも同じ。

 

 

今日は雨の音に耳を傾けたり

いつもより少しだけ

ゆっくり過ごしてみようと思います

「すべてを与えられし者」の最終形態

先日こんなツイートをしたら思った以上に賛同する方が多かった。

 

 

公園に行くと

  • 美しく
  • センスがよく
  • 物腰柔らかで
  • 子供へのもマリア様
  • そして他人にも優しい

ってな感じの菩薩系ママに遭遇することがある。

 

着飾ってる人達ともまた違う。

 

明らかに住んでいる世界が違うのに、1mmも気取らないので同じ世界の人だと誤解しそうになる。

 

なんであんなに良い人達なんだろう?心の余裕・・?

 

・・・が、考えてみれば、これは専業ママ云々以上に、「すべてを与えられし者」の最終形態なのだと思いあたった。

 

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会社員だった頃、一緒に仕事していた女性を敬愛していた。

 

彼女は全く偉ぶらないので、私のようなペーペーとも付き合う。

 

が、なにげない話の端々に「超アッパー層なご家庭で育ったのだな・・・」と推測せざるを得ないエピソードが出てくる。

 

細かく書くと身バレするので割愛するけれど、「そんな経歴、アメリカのテレビドラマでしか見たことないよ???」という超・才女。

 

幼少期の恵まれた環境も、努力の末に自分で獲得した立派すぎる経歴も、決して人にひけらかさない。でも、漏れ出てしまう。

 

例えばランチ中に夏休みの話になって、彼女がためらいがちに「ちょっとお友達の別荘に行ってきた」というので写真を見せてもらうと、その別荘というのは"スーパーエリート元同級生が世界展開するホテルのバリでのオープニングセレモニーだった"みたいな世界観。隠しても隠しきれない。

 

そして、「ノーブレス・オブリージュ」という言葉は彼女のためにある言葉だなと思うような、他人への親切さと優しさの美女・・・。

 

そんな彼女と話すたびに「神よ、あなたは彼女に何物を与えたのですか」と思っていた。

 

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私自身は普通のサラリーマン家庭育ちなのだけれど、学生時代通っていた学校には裕福なご家庭や政治家の娘も多かった。

 

その中には日本国民全員が知っているであろう会社の社長の娘とか、「度肝を抜かれるご家庭の子」というのがいた。

 

彼女達は決して自分の親の立場をひけらかすことはなく、むしろバレてしまうのが嫌だったようで「私と親は関係ありません」というスタンスでひっそりと暮らしていた。

 

「今日のお弁当の牛肉は100g○○○○円」と自慢したとかしていないとかで隣のクラスまで失笑を買っていた子がいたけれどそれはスーパーレアケースで、とんでもない子女ほど静かにしている。

 

キムタクの娘が学校で「私のパパはキムタク」とは言わないだろう。多分それと同じ。

 

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先程の菩薩系ママも、私が敬愛する職場の女性も、学生時代の同級生も「すべてを与えられし者」なのだけれど・・・。

 

彼女達の感じ良さ・性格の良さは「余裕からくる安心感」がベースにあるのだろうけれど、「妬みから身を守るため」の防御策もあるのかもしれない、と思う。しかも、自覚なしの。

 

世の中には一定数、他人の成功を嫉妬したり、妬む人がいる。

 

ひけらかせばひけらかすほど、妬みというものを買うことになってしまう。

 

そして、「持てる者」ほど些細なことで批判と反感を買ってしまう。

 

だからこそ、「ナチュラルボーン・すべてを与えられし者」の最終形態は謙虚に、見せびらかさず、ひっそりと、感じよく暮らしていく、ということなのかなと。

 

彼女達はときに自虐を交えたりするので、マウントを取るどころか小さく見せよう・普通に見せようしている。

 

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一方でセレブライフを売り出している人達もいる。デ○婦人やインスタで富や美を見せつける人達のように。

 

彼女達は妬みを持たれるであろうことは知りつつ、そういうものを蹴散らす強さがある。

 

私自身は、そういう打たれ強さも好きだ。並の人間には真似出来ない。

 

 「普通の人」が辿り着かないような悩みのある世界・・・どちらの彼女達も、そういう世界にいるのかもしれない。

自己啓発本の読みすぎで鬱になる

 

実は私、大きな声では言えないけど、自己啓発本、結構好き。

 

最近はビジネス書と自己啓発本の垣根も薄くて、読んでいるうちにどちらか分からなくなってくることも多い。

 

そんな私と同類の「自己啓発本好き」なあなた、幸福感は高いだろうか?

 

自己啓発本の功罪

 

自己啓発本というのはリポビタンDみたいなもんなんだと思う。

 

読んだその後は、なんだか元気になる。

 

そこらの人よりも何か知っているような気分になって、ちょっとだけいい気分。

 

ところが・・・。

 

先日、自分の幸福度というものをチェックする質問があって、回答しているうちにこんなことが頭に浮かんでいることに気がついた。

 

理想のワタシの家は○○だけど、今はXXだ。

 

母親としてのワタシの理想は○○だけど今はXXだ。

 

理想のワタシの仕事は○○だけど今はXXだ。

 

・・・こんな感じで、いつも理想を考えているから現実と理想のギャップに不足感を感じてしまう。

 

理想像に執着している自分。

 

実際、今の生活にはけっこう満足しているのに、理想を考えるせいで比較をしていまう。

 

こういう気持ちになった人間は私だけではないはずだ。

 

自己啓発本、読みすぎ症候群

 

モントリオール大学の18名を対象とした論文で『年4冊以上の自己啓発書を読むと、ストレスに弱くなり鬱になりやすくなる』というものがあるらしい。

 

まぁだいたいが自己啓発本というのは、心が弱っている時とか悩みがあるときに読むもの。

 

なので、本を一冊読んだぐらいでは人生は変わらず、変わらない人生にまたストレスを感じて鬱になるのかな・・・という気はする。

 

あまりにカンフル剤を打ちすぎると、弱った体には害があるということか。

 

カンフル剤は1シーズン1冊くらいまでの「ほどほど」がよいということらしい。

 

 理想について考えすぎるからギャップが生まれる

 

最近読んだ本で、とっても心に刺さった箇所があった。

 

自分が〝こんなにも〟努力したのだから、必ず〝これくらい〟の見返りがあるべきだという思考こそが苦悩の始まりだ。

 

 

これはとりもなおさず期待が裏切られた時に、もしくは自分の期待を自分で裏切ってしまった時に、心というものが疲弊するろいうことだろう。

 

自己啓発本とは真逆の立場なのが「置かれた場所で咲きなさい」というタイトルだと思う。

※まあこの本も自己啓発本なわけだけど。

 

ー「ここではないどこかへ」を期待するのではなく、今の場所で咲くー

 

いつも理想ばかりを考えてふらふらしがちな私にとって、「いい加減に今の状況を認めなさい」というメッセージな気がする。

 

いつも役立つ本を読んでいなければならない

 

そして先ほどのあやうく一生懸命生きるところだったに書いてあって、ハッとした箇所をもう一つ。

 

※少し長いけれど、多くの大人に当てはまると思うので、全て引用。 

子どもの頃は、大人たちが遊ばせてくれないから遊ばなかった。 しかし、成長するにつれ、自分にも選択する権利があることを知った。どうやら、遊びたければ遊べるのが大人の権利のようだ。

 

なのに、いざ大人になってみると、どういうわけか思っていたほど遊べない気がした。誰かに禁止されたわけでもないのに、なぜか思い切り遊べなかった。大人になった僕が、僕自身を遊ばせないのだ。大人って、遊ぶことが嫌いな生き物なのだろうか。 いや、違う!

 

本当は大人たちだって遊びたいのだ。心の底から。同僚も先輩も課長も部長も、社長だって遊びたい。なのに遊べない。

 

なぜか?それは、お金を稼がなくてはいけないからだ。扶養家族があるからとか、老後の準備のためだとか、遊べない理由は枚挙にいとまがない。 一方で、遊ぶべき理由はどこにもない。

 

そうだ、大人たちは適当な大義名分がないと、やりたくてもやらないのだ。

 

 ・・・一部の人には全く理解ができないと思うけど、私は社会人になってから一切小説が読めなくなってしまった人間だ。

 

最初の総合商社を辞めて一人旅に出たときに、行きの飛行機の中で久方ぶりに読んだ。

 

「この空はどこに続いているのだろう」みたいなことばかり考えがちな大学生だった私が、コンクリートジャングルの中で社会人として生きていくために、「役に立ちそうな」本を必死で読んだ。

 

ビジネス書をたくさん読んでいたら、いつのまにか自己啓発本に辿り着いたという感じだ。

 

そして振り返ってみると、母の言葉が時々頭をよぎるんだ。

 

「お父さんは自己啓発本も読まないでゲームしてばかり」

 

ーエリートサラリーマンだった父ですら息抜きが許されないー

 

時々思い出すこの言葉は「遊びよりも自己啓発の方が重要度が高いんだ」という無意識の刷り込みになっていた気がする。

 

 

ーもうそんなにムダに頑張らなくてもいいんだ。

 

ーもうそんなに役に立つ本ばかり読まなくてもいいんだ。

 

そんな風に思ったら、自己啓発本の鬱からも抜け出せそうな気がする。

 

自己啓発本仲間のあなたはどうだろうか。

 

34歳のミドルエイジ・クライシスと浮気願望?

先日、結婚7周年を迎えた。

 

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夫は大好き。めちゃくちゃ善人で、かっこよくて、面白くて、この人以外にないと思っている。

 

・・・なので、他の既婚女性から漏れ聞こえてくる恋愛願望とか「私は女としてこのまま終わるのかなと思うと寂しい」といった声は正直、全く分からなかった。

 

私の中に1mmもそんな願望は沸かなかったから。

 

そうして7年過ごしてきた。

 

ところが。

 

ここ数日ほど、「私は女としてどうなんだろう」「私はまだ”アリ”なんだろうか」と頭に浮かんだ日があった。

 

きっかけは3つあると思う。

 

1.子供の手が少し離れる

1つは、めちゃくちゃに手がかかって死にそうだった子供達のお世話が、ほんの少しラクになったと感じるから(だいたいこういうのは一瞬の勘違いに過ぎないのであまり信じない法がいいのだけどw)。

 

人は死にそうなときには「自分は女として/男としてどうなんだろう」なんて思わない。

 

「自分は女として/男としてどうなんだろう」なんてことを考えることが出来るのは一種の贅沢であり、暇なのだと思う。

 

 

2.夫との距離

もう1つは、ここのところ夫の仕事が忙しくてあまり会話をする時間がなかったということ。

 

険悪なわけでもなんでもないけれど、なんとなく、好きな人とあまり話せないというのは少しさみしいし、同居人感が出る。

 

ましてや「パパ・ママな関係性」になってしまうと女心は揺れ動くものなのかもしれない。

 

 

3.年齢を感じる事象が発生する

そして最後は、ミドサーという自分の年齢を意識するようになったから。

 

コロナ禍で1年程ほとんど友人にも会わなかったのだけど、ここ最近、中高時代の友人や職場の元同僚などにばったり会った。

 

ステイホームな1年の期間を経て会う彼女達の目元に、うっすらとしたシワが。

 

シワがあったところで彼女達の美しさが損なわれたと思ったわけではないのだけれど・・・。

 

それでも初めての驚きだったので脳は情報として捉えていて、「私ももう少ししたらシワが出現するのかな・・・」なんてことを無意識のうちに考えていた。

 

生物としての生殖適齢期のピークは過ぎようとしている。

 

子供を産んで随分と変わった身体。

 

最近まで婚活うんちゃらのメンドクサさを見ては「恋愛市場から完全に足を洗って解脱(げだつ)出来てよかった」とすら思っていたけれど。

 

このままで一生終わるのか?

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

これが、ミドサーにして初めて感じたミドルエイジ・クライシスというやつか??

 

中年の危機とは、中年期特有の心理的危機、また中高年が陥る鬱病不安障害のことをいう。ミッドライフ・クライシスMidlife crisis)の訳語であり、ミドルエイジ・クライシスMiddle age crisis)とも表記される。

中年期は働き盛り、熟年とも呼ばれ、1960年代までは人生の最盛期として認識されてきた[1]。1970年代より発達心理学では、中年期を大多数の大人が経験する人生の一つの段階として研究が進められ、臨床心理学などを含めて「中年期危機」という用語が用いられるようになった。

中年の危機は30代後半から40代にかけての中年の入り口で体験される他、現役引退期にも訪れやすい[1]。しかし2020年現在では30代でも若手や青年などと扱われることが多く、逆に30代を中年中高年と呼ぶ人は少なくなった為、入り口と呼べる年齢に制限は無い状態にある。

 中年の危機 - Wikipedia

 

先日Frauや文春オンラインの記事で「女性向け風俗」というものの存在を初めて知ったのだけれど、利用者は43歳が多いらしい。

 

利用者40代が既婚か未婚か子持ちかDINKSか統計は誰にも分からないけれど、スパッと快楽を求めるというよりは揺らぐアイデンティティに不安を持って足を踏み入れるのではないか。ただの推測だけど。

 

自分が「女としてアリ」かどうかを他人に評価されるなんてくだらないと思うけど、一方で「男女」となると相手があるのは避けられないこと。

 

自信があれば自己評価で十分だけど、ふと疑問を持ったときこそ他己評価に頼りたくなるのだ。

 

絶望するかもしれないと思いつつも。

 

しかし、おカネを払った相手なら絶望させられる危険性は少ない。

 

・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

日本では、「母親/40代前後が恋愛するなんてはしたない」というか「気持ち悪い」という感覚があるのではないかと思う。

 

「母親になる」という門をくぐったら「女」という世界には戻って来られない。

 

子供がいる人がネイルをするのはアカンとかおしゃれをするのはアカンという人も未だにいるが、それらは「母親ではなく女がすることだから」なのだろうと思う。

 

フランス女性の生き方的な本を読んでいるとよく出てくる「生涯現役」みたいなカルチャーからすると、いくつかのアイデンティティを殺して生きるという生き方はかなり息苦しい気もする。

 

・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

数日ほど浮かんでいた「私は女としてどうなんだろう」「私はまだ”アリ”なんだろうか」という疑問はもう消えたけれど、思春期同様に身体が変化してく中年には同じようなことをまた思うのだろうか。

 

 

 

 

 

 

「ご飯は左」から繋がるひな祭りの地獄

先日、初めて「チコちゃんに怒られる」を観た。

 

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この日のトピックの一つは

 

なぜご飯は左・お味噌汁は右なのか」

 

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https://oggi.jp/6176506

 

 

答えは

 

皇帝は不動の北極星を背に南に向かって座るのが善しとされ、皇帝から見ると、日は左の東から昇って右の西に沈む。

 

というのが由来で、中国や日本では左がエラい(「左上右下」)という考えが生まれ、「聖なる米は左にあるべし」という発想から出た配膳マナーらしい。




・・・そう考えると、女の子のお祭り・ひな祭りで

 

左のお内裏様>右のお雛様

 

というのはなかなか渋いものがあるなと思った。

 

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年に一度、女の子の健やかな成長を祝う日は婚礼のシーン。

 

その結婚シーンですら「左上右下」。

 

かたや、五月人形を飾り、兜をかぶって男の子の健やかな成長を祝う日「こどもの日」は国民の祝日・・・。

 

ま、ただの風習だけど。

 

因みに、西洋だと”right=正しい”というくらいなので、「右が上」で日本と逆らしい。

style.nikkei.com

かつて宮廷では左側が位が高いとされたので、京雛では「みかど」が左、「お妃さま」が右の座り方になっています。

関東雛は現代の国際基準に合わせて「右上位」の座り方です。右上位が浸透したのは、大正時代以降だとか。

もちろん現代ではどちらも手に入りますので、好みで選ぶといいでしょう。また、並び方も自由にできるものがほとんどです。

 

www.jalan.net



皇室の写真を見ると、見事に左右が決まっていた。

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念の為に言っておくと、「お雛様くらい左に置け」と言いたいのではない。

 

 

「太陽が登る左が上」とか、古代エジプトならともかく21世紀の現在は正直どうでもいいし、左右で上下をつけるという発想自体がくだらないと思ってしまう・・・。

 

 

そんなに上下をつけたければプレバトのように、椅子の高さ自体を変える方がよほど健全では。

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https://ameblo.jp/68791496/entry-12537107222.html

 

 

・・・と思っていたら、関西や九州の一部ではご飯もお味噌汁も左に置く地域があるそうな。

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味噌汁の配膳 東西で違い 商人気質 ルール変える(もっと関西): 日本経済新聞

 

 

さきほどの「チコちゃんに怒られる」では「大阪の人はせっかちで合理的だからいちいち手をクロスさせて味噌汁取るなんてありえへん」って大坂の人が怒ってて、大阪の人スキ♡とさらなる好意を抱いてしまった。

 

「怒ってないから大丈夫だよ」というこどもの優しさ

3歳の娘と近所の公園に行ったときのこと。

 

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砂場で遊んでいると、砂場のふちに砂のお団子が並んでいた。

 

 

お団子で遊んでいる子はいない。

 

 

誰かが作って放置していったお団子なのかなと思った。

 

 

娘も同じことを思ったらしく、3歳児特有の本能的な破壊の衝動で、1つずつお団子を壊し始めた。

 

 

すると、砂場の別のエリアで遊んでいた幼稚園児くらいの子供たち(=娘よりも1~2歳くらい年上)が集まってきた。

 

 

「これ、作ったのに。」

 

 

「誰が壊したの?」

 

 

「この子だよ」

 

 

あっという間に"お兄さんお姉さん"が集まってきた。

 

 

「ごめんね、砂のお団子、もう誰も遊んでいないと思って壊してしまったの。知らなかったとはいえ、壊されたお兄さんお姉さん達も悲しかったから、娘ちゃんもごめんなさいって謝ろうね。」

 

と私が促すも、娘は6人ほどに取り囲まれて完全に硬直。

 

 

緊張で一言も発することが出来ずに固まる娘の方に、ふと男の子が一歩進みでて

 

 

「怒ってないから大丈夫だよ」

 

 

と言って、娘の小さな肩をポンとしてくれた。

 

 

私にはこの言葉と光景がひどく響いた。

 

 

 

誰かを糾弾しようとしているときに、その集団を抜けて「怒ってないから大丈夫だよ」と言えるだろうか。

 

 

自分より小さく弱い者が萎縮しているのを見て「怒ってないから大丈夫だよ」と言えるだろうか。

 

 

相手に悪意がないと分かったら「怒ってないから大丈夫だよ」と善意を示せるだろうか。

 

 

子供の頃にこんなこと、言われたかったな・・・。

 

 

子供が牛乳でもこぼすと「何やってるの!」と思わず怒ったりしてしまう大人は多いと思う。

 

 

でも、たった4,5歳の子が「怒ってないから大丈夫だよ」と自分より小さき者に、真っ先に寛容さを示せることに心を打たれた。

 

 

親御さんや周りの人にこう言われているから、さっとこんな言葉が出るんだろうな。

 

 

子供や家族は自分の日々のあり方の鏡だなと思った。

 

 

エルパトでカモにされてはならない

はてなの方はあまりブランド物好きな人がいなさそうなので、こっそりつぶやく。

 

 

「エルパト」とは

通称・エルパトという言葉をご存知だろうか。

 

 

これは、エルメストロールの略。

 

 

だいたいバーキンかケリーという高級バッグを求めて、エルメス数店舗を"パトロール"すること。

 

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※さらに疎い方のために補足すると、バーキンとかケリーというのは一番小さく、一番お手頃価格のものでも1個100万円以上という超高級バッグ。クロコだと500万円~らしい。

 

ジェーン・バーキンモナコグレース・ケリーの名を冠して伝説的なバッグに。

 

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バーキンやケリーを手に入れるには

 

  • エルパトを繰り返してお目当てのバッグをゲットする。※かなりの運が必要

 

  • 毎回同じ店舗で買い物することで「担当さん」がつき、その担当さんからお目当てのバッグを紹介してもらう。

 

という2通りの道がある模様。

 

 

苦難を乗り越えてお目当てのバッグに出会った場合、アメブロでは無数の祝福のコメントが飛び交う、知られざる世界。。。

 

 

しかも信じられないことに、あまりにも希少なので

  • 希望のサイズでなかったり
  • 希望の素材でなかったり
  • 希望の色でなかったり

・・・という状況でも「次に出会えるのはいつか分からない」ということで即決が求められる。

 

もちろん断る余地はあるけれど、悩む余地はほとんどないみたいだ。

 

カモられる客

どういうわけだかこういったエルパト(正確にはバーキン・ケリーへの道)の深淵なる世界を垣間見てしまい、いくつかブログ読んだのだけど

 


「担当さん」がいるという方が、バーキンが欲しいがために担当さんに勧められるがままに

 

「欲しくもないのに頑張って10万円のティッシュケース買っちゃった」というのを読んで衝撃を受けた。

 

 


言い方は悪いけどそれ、カモにされてまっせ・・・。

 

 

 

引っ張られないために

なんでも、バーキンとケリーは購入希望者があまりにも多いので、年に2個までという「枠」があるらしい。

 


先程の10万円のティッシュケースの話に戻すと、「引っ張れば引っ張るほど買ってくれる」と認定されたらご希望のものは年末まで出てこないのでは・・・。

 

 

ショッピング中にはあまり考えたくないことかもしれないけれども、アパレル店で働く店員さんにはノルマと言うか売上目標がある。

 

 

※ノルマというほど厳しいものなのか、あくまで目標なのかはお店によって違うと思うけど、数値化されている。

 


一瞬、宝飾店で働いたことがあるけど、旗艦店であればあるほど、各自が課せられる売上目標は大きくなっていく。

 

 

本当はつけっぱなしにするなら地金のみの結婚指輪にした方が良い(※)だけど、「ダイヤ入りだと売上上がるんで毎回ダイヤ入りを推してます」という人もいる。

 

※結婚指輪は24時間365日、酷使する指の上で使うものなので、完全なつけっぱなしではダイヤを留めるツメが摩耗してきてしまう。

 

 

本当にエルメスティッシュケースが欲しくて店に行ったわけじゃないのに、お付き合いで「買ってくれる」と思われるとなかなか面倒なことにならないかな・・・って店員側視点で思ってしまった。

 

 

(もちろん本人がハッピーなら何を買ってもいいけれど、欲しくないのに買っちゃったって書いてたからね。。。)

 

 

ちなみに、バーキンの中古価格は状態が良ければ200万円~に跳ね上がる。

 

 

元の持ち主がバーキンを手に入れるまでにかかった労力やお金を考えればこれぐらいは当然のことらしい。

 

 

最上級の皮を使って、一人の熟練した職人が20時間以上かけて作るという特別なバッグ。

 

 

もちろん量産出来ず、希少であることには間違いないのだけれど

 

「欲しくても、お金を積んでも、カンタンに買えるわけじゃない」

 

というマーケティングによってますます価値を高めているのだろうな、と考えた。それは、戦略でもあり、ブランドの矜恃。

 

 

ファンの方からすると「部外者がこんなことを書いて!!!」とお怒りかもしれないけど

 

間違ってもエルパトをバカにしているわけではなく、むしろそこまでの情熱を掻き立てるバッグってどんなバッグなんだろう・・・と気になって、エルパトブログを読み漁ってしまったのだから。

 

 

ただ、経験上、全ての店員がお客のことだけを考えている訳ではない。

 

 

いくら芸術的に美しいバッグでも、そのバッグ欲しさに、店員の都合で欲しくないまで買わされるのは元高級品店員として悲しい。

 

 

塩対応の担当さんに頭を下げる?客でも店員でも、無礼なのは許されない。ましてや店員が無礼でも客が我慢するなんて信じられない。。。と思ってしまう。

 

 

本当に欲しいものだけを買って、いつかは欲しいバッグに出会えることを祈っている。