私鉄沿線のパンカルチャーとコンクリートジャングル

今日はどうでもいい所感です。。。

 

 

 

先日、365日という有名なパン屋に行ってきた。

 

代々木公園脇、小田急線「代々木八幡」から徒歩1分。

 

改札を出た瞬間からなんだか懐かしい「私鉄沿線の雰囲気」。

 

 

 

というのも、私も以前は小田急線&京王線の沿線が最寄りの駅に住んでいた私鉄沿線ラバー。

 

夕方の、まったりとした空気。

 

道が狭くてガードレールもあまり整備されていなかったりするんだけど、道行く人も歩くスピードもゆっくりで、銀行の自動ドアが開くたびにエアコンの冷気が吐き出される。

 

 

 

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今の山手線内側の都心の住まいは、周りにお店も山ほどあって、超絶便利でとても気に入っているのだけれど・・・

 

唯一存在しないのが、「パン屋」だと感じている。

 

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正確に言えば、もちろんパン屋は存在する。

 

ただ、なんというか、ほんの少し、工業的・マニュアル的なにおいがする。

 

※もちろん例えであって、パンそのものはおいしい。

 

 

 

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都心の高い地価では、個人経営のパン屋はやっていけないのだろう。

 

必然的に、全国に複数の店舗を構えるパン屋か、他に飲食店を経営しているような会社がバックボーンとなっているパン屋が中心となる。

 

例えば銀座の中村屋とか、ミッドタウンのメゾンカイザーとか。

 

美味しいけれど、店舗の広さに関わらず、なんとなく距離感はある。スーパーマーケットと似た感じの。

 

良いとか悪いとかではなく、ただそういう距離感。

 

 

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実際、私鉄沿線エリアに住んでいるからといって、個人経営のパン屋さんの店長と話すわけでもない。

 

でも、なんとも言えない「ローカルな感じ」は、他に店舗を持たない、個人経営のパン屋やケーキ屋さんが醸し出しているのかもしれない、なんて思う。

 

京王線・三大パン屋」なんて言葉はあるけど、「山手線・三大パン屋」なんてのは聞いたことがない。

 

(前に住んでいたエリアにはむやみやたらと個人経営のケーキ屋があったけど、今の都心のエリアではHARBSとかキルフェボンとかはあれど、個人経営のお店はない。)

 

八百屋だって魚屋だって、良い個人経営のお店はあるはずなのに、パンに比べると全国からわざわざ人が来るというのはあまり聞かない。

 

 

パンにはなぜか、わざわざ人に足を運ばせる魔力がある。

 

 

そして、個人経営の小さな店舗にギュッと詰め込まれた焼き立てパンには、「なんだか得体の知れない特別なものを買いにきた」のだと感じさせる魅力があるのだと思う。

 

 

 

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※ちなみに冒頭の365日はウルトラキッチンという会社が経営しているので「個人経営と違うじゃん!」という方もいるかもしれない。杉窪章匡というオーナーシェフと365日の取り組みについてはカンブリア宮殿で紹介されていたのが面白かったので訪問。

 

「良いお友達」の影にある選民意識

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Twitterを見ていたら

 

「良いお友達を作ってほしいから子供を私立小へ」

「公立に行く?と聞いたら子供が"悪いお友達がいる小学校には行きたくない"と泣き出してしまった」

 

というママがいて、「良いお友達」ってなんだろ??と考えていた。

 

話の流れからして、「私立の一貫校=長く付き合える=良いお友達」という意味ではなさそうだった。

 

公立と私立での経験

私自身は

  • 公立小学校3つ
  • 中学受験を経て私立の中高一貫校
  • 私立大

に通った。

 

割と私立志向の強い母だったので、小学校受験も考えていたらしいが、転勤族の家庭だったのであきらめたらしい。

 

そして父の転勤の関係で超マンモス校の公立小学校に通っていたころ、私は万引き小学生グループと仲良くなった。※私は万引きしていない。

 

小学校2年生くらいだったのでうっすらとした記憶だけど、「親友」と思っていた友達は「お父さんとお母さんが殴り合いの喧嘩をした」とか「(性器を)舐め合っていた」といったことを話していたので、色々な思い出から勘案するに家庭環境が良くなかったのだなと今となっては分かる。

 

そんな話を私が母にしたのかは覚えていないけれど、私の母は「そんな子たちとは離れて"良いお友達"を作りなさい」「ケイはいい子だから断れなくてすぐそういう子と仲良くなっちゃうのよね。困るわ」と言っていた。

 

"親も気に入りそうな良い子"がクラスにいて、暑い夏の日のプールの中で、ドキドキしながら「友達になって」と言ったときのことを、もう25年くらい経つのにいまだに覚えている。目を開けていられないほど眩しかった夏の光も。軽い違和感の残る言葉だったといまだに思う。

 

その後転校してしまって、もう会うこともないのだけれど、いまだに万引きグループの方の友達のことをたまに思い出す。何してるのかな、と。"親も気に入りそうな"良いお友達の方は、名前とそのプールの中の一コマしか思い出せない。良い子だったのは間違いない。

 

公立vs私立は成り立つのか

普通の人よりたくさんの小学校に通って思ったのは、「どこに行っても同じような役割の子がいる」ということ。

 

いわゆる良い学区でも悪い学区でも、虐待とか非行とかいじめはある。真面目くんもおせっかいちゃんもスポーツ万能くんもおちゃらけくんもいる。

 

そして、私立も同じく。

 

私立中でもいじめがあったし、万引きなどの問題行動を起こす子はいた。名家生まれの同級生は超有名なAV女優になった。

 

確かに、私立にはネグレクトで服も買ってもらえないような子はいないかもしれない。でも、精神的ネグレクトや教育虐待とは無関係と言えない。

 

私立にも問題児がいる可能性がある以上、「私立/公立」とか「金持ち/普通/貧乏」と「良いお友達」「悪いお友達」は関係がない気がする。

 

 

勿論かなり極端な例だけど、幼稚舎(小学校)から慶応の方でこんな人もいましたよね。。。

news.yahoo.co.jp

 

考えた結果、「私立=良いお友達」という思考の人の中では「良いお友達=良いスタートラインに立たされている子供」なのではないかと思った。言い換えると「良い社会的地位の家庭の子供」か。もしくは、受験というふるいをくぐり抜けた「優秀なお友達」なのかもしれない。

 

ただ、優秀な子しかいない=問題行動を起こす子がいない、ではない。

 

「私立」vs「公立」で成立する違い

「私立」vs「公立」で成立しうる違いは

 

  • 家庭の財力が一定以上vs財力バラバラ
  • 学力が均一vs学力バラバラ
  • 親の志向が均一vs親の志向がバラバラ
  • 同じ教育方針に惹かれて入学させるvs学区だから入学させる

 

ということくらいではないだろうか。つまり、私立には受験というふるいにかけられたゆえの均一性があり、公立にはそれがない。※特に小学校の場合。

 

「多様な価値観を見せたいから公立」というのを批判する人もいるけれど、私立が(親の志向を含めて)ある程度均一な環境であることを考えれば、親の志向や教育方針や子供の個性といった面での公立の多様性というのは成立すると思う。

 

最初の「良いお友達を作ってほしいから子供を私立小へ」も、「我が家と同じような志向や家庭環境のお友達を作ってほしいから子供を私立小へ」だったら合理的だったと思う。

 

ただ・・・

 

特定のグループに所属する人を「良い」「悪い」で表現することには無意識の差別・選別意識のあやうさを感じてしまう。

 

「我が家と似た家庭環境」でない家庭の子供は悪いのだろうか・・・?

 

 冒頭の親子は私立小に落ちた場合、「悪いお友達」のいる公立小でどんな風に過ごしていくのだろう。

 

「どこに行っても良いお友達も悪いお友達もいる」とでも思っていた方がずっと期待も落胆も小さくて済むと思うのだけど。



※お受験はたまにエクストリームな方がいるので最後に念のため補足しておくと、私立を否定しているわけではないのは読んでいただければわかると思う(私も中学受験組)。私が言いたいのは「私立小=良いお友達」というほど単純な図式は成立せず「私立小=似た環境のお友達」であって、その中で好ましい友達か否かはどんな環境でも親が目を光らせておく必要があると思っている、ということ。

「遊郭は悪いもんじゃなかった」という説と新疆綿の話。

鬼滅の刃のアニメ続編「鬼滅の刃遊郭編ー」の放送が決まり、話題になっているのが「遊郭」。

 

マンガを読んでいない人も「遊郭」という言葉に対して反応しているので、Twitter上では収拾のつかない状況・・・。

 

マンガを読んで感じたのは、鬼滅の刃では遊郭は舞台にはなれど、決して美化されていないということ。

 

むしろ、人間が鬼になった背景が悲惨すぎて、

  • 花魁などの美しい女性達が出てくる華やかな部分
  • 人間扱いされなかった人たちがゴミのように打ち捨てられる地獄

が両方表現されていると感じた。

 

鬼滅の刃 9 (ジャンプコミックスDIGITAL)

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遊郭は悪いもんじゃなかった」という説

ところで、気になったのが遊郭は悪いもんじゃなかった」という意見がある、ということ。 

 

 

 

 特に、印象的だったのがこの方のツイート。

  

 

 

 ※公式引用機能を利用したツイートの引用は、Twitter内での引用RTと同様、twitter社ポリシーにより許可されています。

 

遊女の置かれた悲惨な展示を目の前にしながらも「悪いもんじゃなかった」と認識を変えることが出来ないのはなぜなんだろう・・・

 

人は信じたいものを見る

なぜ認識を変えられないのか。

 

その答えは「人は信じたいものを見るから」 だと思う。

 

「自分が認識した情報以外のことを見えなくしてしまう心理的盲点」のことをストコーマと呼ぶ。

 

物理的には視界に入っているのに、脳が認識することが出来ない状態ともいわれている。

 

不都合な真実」という映画のタイトルがあるけれどまさにアレで、"消費者"として、もしくは消費者になりうる者として、買う女性が多少はいい思いをしていると思わないと消費者として辛いのではないかと。

 

昔、仕事で関西の有名なストリップに行ったことがあるのですが、本っっっ当に衝撃だったのが、おじさんにおっぱいを触られたストリッパーが一人一人に「触ってくれてありがとう^^」と言っていたこと。

 

いまだに声とそのイントネーションを思い出すほどの衝撃だった。

 

よほど倒錯した性癖の持ち主でもない限り、いくらカネを払っているとはいえ相手が本音では嫌がっていると思うと萎えてしまう。

 

だから、女の子は「触ってくれてありがとう」と言ってくれる。

 

「売春している側も気持ちいいんだからwin-winだ」とかいう意見を見たことがあるけれど、そうしたリップサービスを真に受けなければ良心が持たないのではないかと。

 

そういうわけで「遊郭は悪いもんじゃなかった」と一部男性が言うのは消費者目線を抜け出せないからではないかと想像。悲惨さを受け入れることが出来ない。

 

※あとは、様々な作品で「遊郭=花魁」として描かれてきて、”ちょっと陰のある美しい女性”の成功ストーリーにフォーカスされるからというのも遠因としてあると思う。例外的な超トップの存在だからこそ物語化され、その他大勢はいないものにされてしまう。

 

無印良品ユニクロウイグル新疆綿

とはいえ、「消費者として現実を受け入れることが出来ない」というのは他人事ではないなと思った。

 

2013年のバングラデシュの裁縫工場が崩落した事故。

www.fashionsnap.com

 3500人以上の人が死傷したけれど、そのインパクトの割にはテレビでは報道されなかったと思う。

 

また、ときどきネットニュースでは見るけれど、テレビでそれほど多くは放送されないウイグルの強制収容&強制労働問題。

diamond.jp

 

ユニクロ無印良品をよく利用する消費者として、自らこの問題について調べようとは思っていなかったのが正直なところ。

 

良い商品を安く手に入れたいけど、自分が買った商品が児童労働や強制労働によって作られているとは思いたくない・・・知りたくない・・・。

 

服などの商品の場合は他のメーカーで代わりを買えば良いので、「不都合な真実」を突き付けられたら受け入れることも出来ると思う。

 

でも、代わりのない商品の場合はどうだろう・・・と自分の胸に手を置いて考えてしまう。

 

100円で買えるチョコレートと同じ量のチョコレートがフェアトレードのメーカーで800円で売っているのを見たとき、「そうはいっても大量に注文するからコストが抑えられるんじゃないか」と考えたのも事実。

 

遊郭セーフティーネット」「結婚相談所の役割も果たしていた」「孤児院でもあった」という意見と同じように、「不都合な真実」に目をつぶって、無意識のうちに消費者として都合よく解釈しないだろうか。

 

 

 

鬼滅の刃、まだ読んでない方は今更と思わず読んでみて! 

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 「最後の色街」と呼ばれ、今も150軒以上の遊郭の建物が残る飛田新地。全部読みました。スカウトマンの杉坂氏が描くストーリーと、ジャーナリストの井上氏が描くストーリーで微妙に世界が異なるのも興味深い。

 

 

 

 

森元首相の「女性の会議は長い」発言の何が問題か分からない人へー明日は我が身ー

世界的にも一斉に批判されている東京オリンピックパラリンピック組織委員会会長の森喜朗氏の失言。

 

一部は「メディアの切り取り方の問題だ」「全文を読めば真意が分かる」と言いますが、全文の方が遥かにひどいので転載。

 

これはテレビがあるからやりにくいんだが。女性理事を選ぶというのは、日本は文科省がうるさく言うんですよね。

 

だけど、女性がたくさん入っている理事会は、理事会の会議は時間がかかります。これは、ラグビー協会、今までの倍、時間がかかる。

 

女性がなんと10人くらいいるのか? 5人いるのか? 女性っていうのは競争意識が強い。誰か1人が手をあげていうと、自分もいわなきゃいけないと思うんでしょうね。それでみんな発言されるんです。

 

結局、あんまりいうと、新聞に書かれますけど、悪口言った、とかなりますけど、女性を必ずしも数を増やしていく場合は、発言の時間をある程度、規制をしていかないとなかなか終わらないで困るといっておられた。だれが言ったとは言わないが。そんなこともあります。

 

私どもの組織委員会にも女性は何人いたっけ? 7人くらいか。7人くらいおりますが、みんなわきまえておられて。(一同笑い)

 

みんな競技団体からのご出身であり、国際的に大きな場所を踏んでおられる方々ばかりです。ですから、お話もシュッとして、的を射た、そういう我々は非常に役立っておりますが。次は女性を選ぼうと、そういうわけであります。

引用:朝日新聞

www.asahi.com

 

森首相の発言の問題点①主語が大きすぎる

まず一目瞭然な点として、主語が大きすぎる。

 

「女性がたくさん入っている理事会の会議は時間がかかります」という発言だが、日系企業での会社員経験がある方なら、男性ばかりの出席者で長い会議があることは誰でも分かるはず。

 

そして、自身も話が長いと認めている。

—— 今日、小池知事が会見で話しが長いのは「人によります」と……。

私も長い方です。はい。

 

www.businessinsider.jp

 

話が長い人も短い人もいる中で、人口の1/2にあたる「女性」を主語にするのは大きすぎる。

 

ただ、これは批判を受けてご本人も理解した模様。

 

森首相の発言の問題点②女性が置かれた立場を理解していない

2点目は、「会議の場でマイノリティである女性の立場を理解していない」という点。

 

「誰か1人が手をあげていうと、自分もいわなきゃいけないと思うんでしょうね。それでみんな発言されるんです。」

これは逆に言えば、女性は誰かが発言しなければ発言権がないと感じているということの裏返しでもある。

 

さらに悪いことに、こういった発言をすることで女性の脳裏には「会議での自分の発言は迷惑ととられるかも?」と浮かぶ。

 

ますます女性は発言できなくなっていくし、今回は世界的に批判されたけれど、そうでなければ会議に参加する女性への牽制だったとすら思える。

 

「論点がまとまっていない」といった批判ならともかく、森氏の発言は「女性達が次々と発言すること」への苦言。

 

出席者が発言することそのものが迷惑だというのであれば、その会議は必要なのか?

 

森首相の発言の問題点③活発な議論を歓迎していない

3点目は、活発な議論を歓迎しない姿勢。

 

参加者が積極的に発言する会議=議論がなされている、ということ。

 

まして、様々なバックグラウンドの人の発言は多面的な議論をもたらす。

 

が、謝罪会見でも

 

——毎日放送のミサワです。 基本的な認識として、会長は女性が話が長いと思っているのか。

最近女性の話聞かないからあんまりわかりません。 

と発言しており、「もはや聞いてね~」ということが露呈。

 

人の話を聞かない83歳が組織委員会の会長でいいんですかね・・・。

 

「女性が発言し始めると時間がかかる」は、つまり「女性は黙っていろ」という本音の裏返し。

 

過去の「女性は視野が狭い」といった発言からも女性蔑視が透けて見える。

www.huffingtonpost.jp

 

首相まで務めた政治家が公共の場でこのような発言をし、誰も止めない日本。

 

森首相の発言の問題点④「わきまえた」女性は歓迎

個人的に一番の問題点だと思うのは「わきまえた女性」「役に立つ」という部分だ。

 

会議に入るならしゃしゃり出るな、立場をわきまえて発言しろ、ということだが、上下関係に基づき自分への反対意見や議論を排除する姿勢

 

そして、「わきまえた(女性)なら選んでやる」と。

 

そういう考えで、そもそも会議する意味あるんですかね・・・。何を話しているんでしょうか。

 

男性にも明日は我が身・・・「わきまえた」という言葉の怖さ

男性も批判している今回の発言だが、このような発言は明日は我が身誰にとっても。

 

というのは、今回の発言、「若い男性」(多くの人は80代の森氏よりも若いでしょう)に置き換えても成立してしまう考えだ。

 

80代の高齢の政治家の発言ということを踏まえて、下記、置き換えてみる。

 

「若い人は、誰かが発言すると自分も自分もいわなきゃいけないと思うんでしょうね。それでみんな発言されるんです。」

 

「若い人を増やしていく場合は、発言時間をある程度制限しないとなかなか終わらないので困る」

 

「若い人は7人くらいか。みなさん、わきまえておられて。そういう方々は非常に役立っておりますが。

 

要するに、80代の政治家が

  • 活発な議論は不要
  • 「わきまえた」自分に都合の良い人間は役に立つ
  • が、わきまえない人間は発言時間を制限すべき

と公共の場で発言している。

 

こういった姿勢は、反対意見を受け付けない高齢男性中心の政治となり、日本社会が停滞する原因になるのではないか?

 

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平均年齢が70代だか80代だかの男性しかいないと話題になったこの写真・・・。

 

出典は失念してしまったけれど昔読んだ本で、「韓国のアシアナ航空が事故を連発しており、調査員会が事故多発の理由を探った。原因は、儒教国ゆえに「目上の者(機長)に対して意見を言えない」というものだった」というのがあった。

 

空軍出身のパイロットが操縦しているため、機長と副機長に絶対的な上下関係があり、 副機長が異変に気付いたり機長に対して意見があっても直接的な表現が出来なかった、という内容だったと記憶している。

 

※この調査を受けて今は改善されているはず。

 

「わきまえた」人間だけが採用される、活発な議論や意見を受け付けない体制は不祥事や"墜落"をもたらしかねないと思うのは私だけでしょうか・・・。

 

 

「変化から取り残された街」と「変化から取り残された人達」

生気を失った街

先日、所用で熱海に行く機会があり、その前後の移動でかなり田舎の方を通った。

 

団体旅行客の乗ったバスに揺られながら外を見ていると、窓の外に続くのは寂れた地元の信用金庫・寂れた地元の服屋・シャッターが閉まった何かのお店の数々・・・。

 

東京のど真ん中に住んでいるとどんな街にもあると思い込みそうになるユニクロもなく、インスタでみんな大好き無印もダイソーもカルディもないし、むしろインスタという言葉を知っている人すらいないかもしれないような、街自体が高齢化した世界。

 

デフレの象徴みたいなチェーン店があるのが好ましいわけではないけれど、どの店もシャッターが閉まっていて、誰も歩いておらず「生気」みたいなものが感じられない。

 

それぞれの人が信じる「世界」

景色を見ながらぼーっと考えていたのは「私が信じている世界と他の人が信じてる世界は同じものだと思ってはいけない」ということ。

 

普通に暮らしていてもそうだけれど、SNSをやっていると自分の好みの人や面白いと思うものをフォローするので、「自分が信じる世界」は日々日々強化されていく。

 

でも、実際のところは自分の外の世界は今日も淡々と存在し、それぞれの一日を送っている。

 

人の生活環境は一人一人全く違う。想像も及ばないくらい、絶望的に違う。

 

「社会は少しずつ変わっている」と思っているけれど、こうして社会の変化から取り残された地域と社会の変化から取り残された人達もいるのだということを思い出した。

変化=良いことではなく、"昨日と同じ"が永遠に続くことを良きことと考える人たちもいる。私の祖母のように。

 

でも残念ながら体は昨日より年をとり、日経平均株価は動き、社会はめまぐるしく変わり、昨日と今日が同じなんてありえない。

「中高年男性の孤独」と「中高年女性の交友関係」の差ってなんだろう

先日、Twitter中年女性に中年独身男性のケアを求める投稿が話題になっていました。

私自身は「なんで中高年女性が結婚しない男のケアまで求められなきゃならないんだ・・・」と絶望感を感じましたが、確かに高齢女性と高齢男性を比較すると、概して女性の方が友達とワイワイやってるケースが多いですよね。※高齢男性でもお酒飲んで談笑するのが好きな人は別ですが。

「中高年男性の孤独」と「中高年女性の交友関係」の差ってどこで生まれるんだろうと考えていました。

子供を持つ女性は強制的にコミュニケーション力を鍛えられる

私自身も母親になって初めて気がついたのですが、子供といるととにかく話しかけられる!

最初の挨拶が「母乳?」という見知らぬおばあちゃん、「元気に成長しろよ」と言ってくれるおじいちゃん、「ジャマだ」と高圧的なおっさん、「かわいい!」とニコニコしてくれる学生etc....

良くも悪くも社会に対して【むき出し状態】になるというか、とても多くの人と触れ合うことになります。子供と出かける男性もいますが、父親もここまで話しかけられるものなのでしょうか・・・?

そして、先日公園で知り合いになったママ友さんが出来たのですが、この度彼女の家に遊びに行くことになって、今はその距離感を推し量りつつ何を持っていくか、どんなコミュニケーションを取るか、頭をひねっています。

流動性のある交友関係の中で生きる

住んでいる地域が同じという以外の共通点のない公立小学校に上がればきっと様々な親がいて、みんな教育目標や期待するものや思考や職業や年収や何もかもが違う中でお付き合いをしていく必要があります。

見知らぬ人とのコミュニケーションというのはある意味ではストレスですが、良くも悪くもこれを強制的にやらざるを得ない環境に置かれるのは現在の日本では多くの場合、母親だと思います。

 

「女の子の方が対人スキルに長けている」とされがちですが

 

子供を持った母親:

もともと対人スキルの高い女性が子供を持つことでさらに強制的にコミュニケーション力を鍛えられる環境に置かれる。

会社勤めのモーレツサラリーマン:

「会社の中・上下関係がある・共通言語がある」というコミュニケーションの中で暮らす。

 

・・・という違いを経て、中年になる頃には男性と女性の孤独の差というのが埋めようもないものになっていくのかなと思いました。

交友関係の流動性が低い日本人

うちの夫(中南米人)は本人いわく「コミュ障 (※コミュニケーション障害)」という割に、初めて会う人とのコミュニケーションに慣れている感じがしています。

これ、なんでだろうとずっと考えていたのですが、中南米の人達は友人と集まろうというときに「友達の友達」とか「友達の弟」とか「友達の弟の友達」とかよく分からない人まで突然来たりしてみんなで遊ぶのが普通。日本人として最初は面食らいました。

でもこれ、日本ではあまりやらないですよね。

例えば、高校の同級生と会う時はそのグループだけで、そこに会社の同僚とかは連れて行かないし、例えば女友達の家に遊びにいくにしても旦那さんがいない日にしたり、在宅だとしても挨拶だけで積極的には交流しないケースが多い気がします。※人によりますが。

何歳になってもコミュニケーションスキルは鍛えられる

同じ文化やバックグラウンドや思想を持った者同士で集まるのは楽しいしラクです。

が、なんとなく自分が硬直化した/流動性の少ない組織の中にいるなと感じたとき、意図してそこを出るか、それ以外の交友関係を持つように心がけることで、コミュニケーションスキルは何歳になっても磨くことが出来るのではないかと思います。訓練だね、訓練。