「変化から取り残された街」と「変化から取り残された人達」

生気を失った街

先日、所用で熱海に行く機会があり、その前後の移動でかなり田舎の方を通った。

 

団体旅行客の乗ったバスに揺られながら外を見ていると、窓の外に続くのは寂れた地元の信用金庫・寂れた地元の服屋・シャッターが閉まった何かのお店の数々・・・。

 

東京のど真ん中に住んでいるとどんな街にもあると思い込みそうになるユニクロもなく、インスタでみんな大好き無印もダイソーもカルディもないし、むしろインスタという言葉を知っている人すらいないかもしれないような、街自体が高齢化した世界。

 

デフレの象徴みたいなチェーン店があるのが好ましいわけではないけれど、どの店もシャッターが閉まっていて、誰も歩いておらず「生気」みたいなものが感じられない。

 

それぞれの人が信じる「世界」

景色を見ながらぼーっと考えていたのは「私が信じている世界と他の人が信じてる世界は同じものだと思ってはいけない」ということ。

 

普通に暮らしていてもそうだけれど、SNSをやっていると自分の好みの人や面白いと思うものをフォローするので、「自分が信じる世界」は日々日々強化されていく。

 

でも、実際のところは自分の外の世界は今日も淡々と存在し、それぞれの一日を送っている。

 

人の生活環境は一人一人全く違う。想像も及ばないくらい、絶望的に違う。

 

「社会は少しずつ変わっている」と思っているけれど、こうして社会の変化から取り残された地域と社会の変化から取り残された人達もいるのだということを思い出した。

変化=良いことではなく、"昨日と同じ"が永遠に続くことを良きことと考える人たちもいる。私の祖母のように。

 

でも残念ながら体は昨日より年をとり、日経平均株価は動き、社会はめまぐるしく変わり、昨日と今日が同じなんてありえない。