自己啓発本の読みすぎで鬱になる
実は私、大きな声では言えないけど、自己啓発本、結構好き。
最近はビジネス書と自己啓発本の垣根も薄くて、読んでいるうちにどちらか分からなくなってくることも多い。
そんな私と同類の「自己啓発本好き」なあなた、幸福感は高いだろうか?
自己啓発本の功罪
読んだその後は、なんだか元気になる。
そこらの人よりも何か知っているような気分になって、ちょっとだけいい気分。
ところが・・・。
先日、自分の幸福度というものをチェックする質問があって、回答しているうちにこんなことが頭に浮かんでいることに気がついた。
理想のワタシの家は○○だけど、今はXXだ。
母親としてのワタシの理想は○○だけど今はXXだ。
理想のワタシの仕事は○○だけど今はXXだ。
・・・こんな感じで、いつも理想を考えているから現実と理想のギャップに不足感を感じてしまう。
理想像に執着している自分。
実際、今の生活にはけっこう満足しているのに、理想を考えるせいで比較をしていまう。
こういう気持ちになった人間は私だけではないはずだ。
自己啓発本、読みすぎ症候群
モントリオール大学の18名を対象とした論文で『年4冊以上の自己啓発書を読むと、ストレスに弱くなり鬱になりやすくなる』というものがあるらしい。
まぁだいたいが自己啓発本というのは、心が弱っている時とか悩みがあるときに読むもの。
なので、本を一冊読んだぐらいでは人生は変わらず、変わらない人生にまたストレスを感じて鬱になるのかな・・・という気はする。
あまりにカンフル剤を打ちすぎると、弱った体には害があるということか。
カンフル剤は1シーズン1冊くらいまでの「ほどほど」がよいということらしい。
理想について考えすぎるからギャップが生まれる
最近読んだ本で、とっても心に刺さった箇所があった。
自分が〝こんなにも〟努力したのだから、必ず〝これくらい〟の見返りがあるべきだという思考こそが苦悩の始まりだ。
これはとりもなおさず期待が裏切られた時に、もしくは自分の期待を自分で裏切ってしまった時に、心というものが疲弊するろいうことだろう。
自己啓発本とは真逆の立場なのが「置かれた場所で咲きなさい」というタイトルだと思う。
※まあこの本も自己啓発本なわけだけど。
ー「ここではないどこかへ」を期待するのではなく、今の場所で咲くー
いつも理想ばかりを考えてふらふらしがちな私にとって、「いい加減に今の状況を認めなさい」というメッセージな気がする。
いつも役立つ本を読んでいなければならない
そして先ほどのあやうく一生懸命生きるところだったに書いてあって、ハッとした箇所をもう一つ。
※少し長いけれど、多くの大人に当てはまると思うので、全て引用。
子どもの頃は、大人たちが遊ばせてくれないから遊ばなかった。 しかし、成長するにつれ、自分にも選択する権利があることを知った。どうやら、遊びたければ遊べるのが大人の権利のようだ。
なのに、いざ大人になってみると、どういうわけか思っていたほど遊べない気がした。誰かに禁止されたわけでもないのに、なぜか思い切り遊べなかった。大人になった僕が、僕自身を遊ばせないのだ。大人って、遊ぶことが嫌いな生き物なのだろうか。 いや、違う!
本当は大人たちだって遊びたいのだ。心の底から。同僚も先輩も課長も部長も、社長だって遊びたい。なのに遊べない。
なぜか?それは、お金を稼がなくてはいけないからだ。扶養家族があるからとか、老後の準備のためだとか、遊べない理由は枚挙にいとまがない。 一方で、遊ぶべき理由はどこにもない。
そうだ、大人たちは適当な大義名分がないと、やりたくてもやらないのだ。
・・・一部の人には全く理解ができないと思うけど、私は社会人になってから一切小説が読めなくなってしまった人間だ。
最初の総合商社を辞めて一人旅に出たときに、行きの飛行機の中で久方ぶりに読んだ。
「この空はどこに続いているのだろう」みたいなことばかり考えがちな大学生だった私が、コンクリートジャングルの中で社会人として生きていくために、「役に立ちそうな」本を必死で読んだ。
ビジネス書をたくさん読んでいたら、いつのまにか自己啓発本に辿り着いたという感じだ。
そして振り返ってみると、母の言葉が時々頭をよぎるんだ。
「お父さんは自己啓発本も読まないでゲームしてばかり」
ーエリートサラリーマンだった父ですら息抜きが許されないー
時々思い出すこの言葉は「遊びよりも自己啓発の方が重要度が高いんだ」という無意識の刷り込みになっていた気がする。
ーもうそんなにムダに頑張らなくてもいいんだ。
ーもうそんなに役に立つ本ばかり読まなくてもいいんだ。
そんな風に思ったら、自己啓発本の鬱からも抜け出せそうな気がする。
自己啓発本仲間のあなたはどうだろうか。